・発達障害の特性を持つ我が子の子育てに孤立、孤独を感じたのをきっかけに、療育、行政、教育にどうにかしてもらう「待つ育児」から、親子で成長し合う「じりつの育児」を始める。
・発達支援については、発達育児の実体験だけでなく、障害福祉相談員、企業常駐のジョブコーチの経験から、子どもから大人までの発達障害児・者とその家族のサポート経験を持つ。
・どんな特性があっても大丈夫!【心理学×脳科学×発達特性】に特化した独自の方法で、真の自立と自律を見据えながら、親子それぞれが自分らしく生きることを目指しています。
詳しいプロフィール
少し複雑な幼少期
3歳の時に姉と死別、それまで母方の祖母宅に預けられ、家族と同居してからは家庭機能不全の環境下で生活しました。私の父は酒乱だったので、毎日父の怒鳴り声と暴力に怯える日々でした。 母からは私が成人するまでは我慢すると言われ、子ども心に罪悪感がありました。酷い時は、姉ではなく私が死ねばよかったとさえ思ったこともありました。 そのため、小学生の頃から常に思っていました。
早く自分の力で生きていけるようにならなきゃ!
月日が流れ、高校卒業と同時に大学進学のため神奈川県に転居し、ひとり暮らしを始めました。やっと家庭機能不全の環境から抜け出せたのは嬉しかったのですが、私が成人するまでは我慢すると言っていた母は酒乱の父のもとに残りました。罪悪感でした。
半ば気を紛らせるためにも昼間は大学で学び、夜は生活費を稼ぐために、毎日アルバイトに励みました。
しかし、大学二年の冬のある日、突然母がアルバイト先に現れました。父のDVに限界だとカバン1つで逃げてきたのです。やせ細って白髪も増えたうえに薄くなった髪の母を見て、私は自分のもとで母と暮らすことを決めました。
19歳で大学を中退し、1ヶ月後には飲食店の接客係として就職。少しでも給料の良い会社へと転職を繰り返しました。また生活が落ち着いた頃、大学時代からの夢だった日本語教師になる夢の実現のために、社会人の傍ら、専門学校に平日夜間と土日に通い、教師資格だけでなく教師育成の講師資格も取得しました。しかし20代半ば頃、突然体に異変を感じ始めました。
中程度のうつ病
最初3ヶ月間の療養の指示が、浮き沈みを繰り返した結果、数年間にわたる療養生活になりました。その間、常にお金の心配と社会復帰できる日が来るのかの不安がつきまといました。そのため、症状が少しでも改善すると焦って就職活動をするのですが、いざとなると尻込みする自分が情けなく、自己否定を繰り返しました。
そして、30歳を目前に別の強い焦りを感じ始めました。
結婚
「うつ病の時に人生にかかわる決断をしない方が良い」という主治医のアドバイスを無視し、大学時代から付き合いがあった元夫と結婚し、元夫の希望に従って義両親と同居生活を始めました。3年後に離婚をしましたが、元夫とその家族とは大学時代から交流があったのでうまくやって行けると思ったのです。しかし現実は違い、結婚したら折り合いが悪くなりました。そして、一気にうつ病を悪化させてしまいました。
もう、消えて楽になりたい・・・
結婚してたった2週間。家中の薬を飲みました。気づいた時には病院のベッドの上。
あぁ、情けないことに死にきれなかったんだ・・・
私は主治医に注意され、母は元夫に離婚を迫ったそうです。きっと病死した姉と私と、娘2人も失うのは避けたかったのでしょう。その時、初めて自分のしたことの身勝手さに気づき、<生きる>ことを考え始めました。
母は良くは思いませんでしたが、私は自分の意志で元夫と二人だけでやり直すことにしました。幸いにも、その後うつ病が寛解に向かい、1年程過ぎた頃、予想外のことが起こりました。
妊娠
主治医にはもうあと2年は妊娠を避けるようにと言われていたので、とても困惑しました。さらに、当時服用していた薬が妊婦に禁忌の薬であったため、胎児への影響も心配でした。
実母には「今のあなたに育てられるの?」
義母からは「障がい者の孫?そんなのいらない!」
助産師からは「リスクがあるならやめるの?どっち?」
産婦人科医からは、「産まれてくるまで分からない。」
私のお腹の子は誰からも祝福されていない・・・
周囲の反応にとてもショックでした。
そのような中、私の主治医だけは中立でした。
「どんなことにも言えること。後悔しないために、どれだけリスクを覚悟するかだよ。」
考え抜いた末、私だけは我が子を祝福する!と決めました。
しかし、どうしても拭いきれない不安が心の奥底にあることにも気づきました。
それは…
自分の命を粗末にした身勝手な私に、新しい命を育てる資格があるのか?
毎日、自問しました。
なぜ、こんな私が新しい命を授かったのか。
なぜ、この子はこんな私の所に来たのか。
旧友の言葉がその答えを導いてくれました。
「生きろ!ってこと。 あなたを生かすために その子は来たんだよ。
その子のためにも生きなさい。 生きて、その子を育てるんだよ!」
不安が確固たる覚悟になりました。
生きる!これが、私が母親として最初に出来ること!
その後、切迫早産の危機も乗り越え、無事に出産しました。息子は昼夜問わずよく泣き、抱っこしないと眠らない子でした。人が多い場所ではじっと動かないか隅っこに隠れ、人が少なくなると急に活動的に動き回り、恥ずかしがり屋なのだと思っていました。ブロック、ごみ収集車、おままごと、絵本と三輪車が大好きで、よく飲みよく食べ、月齢相応の言語や行動も見られました。
時給850円のシングルマザー
しかし、息子が1歳を迎えるころ、お金の問題がきっかけで私たち夫婦は1年間の別居、調停を経て離婚しました。私はシングルマザーとして息子を育てることを決め、就職活動、新しい家、保育園探しを始めました。当時、私個人の貯蓄は30万円ほどしかなかったので、少しでも生活の足しになるよう結婚指輪をはじめ現金化できるものは全て売りました。幸いにも保育園も見つかりましたが、家と仕事がなかなか見つかりませんでした。
働く意欲はあるのに、2歳児のシングルマザーと正直に伝えるだけで一瞬にして面接官の表情が曇る。どこも採用してもらえませんでした。ハローワークでは「シングルマザーなんて本当のことを言っちゃだめ。」とさえ言われました。
なんて理不尽な世の中なのだろう・・・
これで最後の勝負だ!と臨んだある会社の面接で、気づいた時にはなりふり構わず頭を深々と下げながらこんなことを言っていました。
「子どもに衣食住と教育を与えるために一生懸命働きます。ですから、どうか、私に仕事をください!お願いします!」
3人いた面接官のうち、一番ご年配の方が「いいんじゃない?」と、即決採用してくださいました。研修スタートの時給は850円。子どもを育てるには不十分でしたが、しがみつくしかありませんでした。
しかし、住まい探しは依然難航していました。母子家庭で、諸事情により身内から保証人がたてられないことが原因のようでした。
誰も助けてくれる人はいないんだ・・・
ただ生活をしたいだけなのに・・・
小さな声で言いながら涙が溢れました。すると、2歳の息子の声が聞こえてきました。
「ひでのりがいるよ!ひでのりが、マミーのそばにいるよ!」
小さな胸をトントンと叩きながら2歳の息子が私に向かって言いました。
生きてこの子を育てるために、立ち止まっている場合じゃない!
その後、ある不動産屋の社長さんが「幸せになるために早く新しい環境で生活を始めなさい。」とアパートを借りられるようオーナーさんに調整してくれました。
こうして時給850円のシングルマザーになり、築31年のアパートで2歳の息子と新生活を始めました。生活は苦しかったですが、幼少時代に毎日怯えて暮らしていた私にとって、大切な人と穏やかに暮らすことがこんなにも幸せなことなのだと痛感する日々でした。
母子家庭の子供は愛情不足!?
しかし、息子が年中クラス頃から保育園のお友達とのトラブルや先生の言うことをきかないため「こんな子は初めてです。」と注意を受けることが多くなりました。家庭でも、こだわりや好き嫌いがはっきり見えるようになりましたが、ただの頑固だと思っていました。むしろ、保育園の先生からの一方的な注意に疑問を感じ、最後に決まってこう言われることに強い怒りとショックを感じていました。
「お母さん、ちゃんと家でちゃんと見てますか?」
「母子家庭で愛情不足だからわざと悪いことをするんですよ。」
悔しいですが母子家庭という事実を言われると反論出来ず、私はただじっと拳を握りしめ謝罪するしかありませんでした。
小学生になってからも同じようなことは続きました。学校や学童生活では友達だけでなく先生とのトラブルが多くなりました。先生の指示通り動かず、稀に先生に対して言い返す息子は、先生にとって「困った生徒」になりました。加えて、学習面の困難も目立ち、学習道具や便り類の紛失や忘れ、提出期限が守れない、ノートが書けない、問題を読んで理解して書けない、音読に時間がかかるなど、躓きが増えました。授業は静かに受けていましたが、ノートは落書きばかりでした。それが本人なりの困り感の回避方法だったのだと思います。一方、帰宅後の宿題では、分からない、嫌だという思いが強まるときまって癇癪を起こし、当時の私は、力で押さえつけることしか分かりませんでした。
私のしていることは、子どもの頃に父がしていたことと同じじゃないか・・・
恐ろしくなりました。そして、成長とともに息子も力で反撃してくるようになりました。
息子のその力が、もし、外に向いてしまったらどうなってしまうのだろう・・・
更に恐ろしくなりました。
我が子の発達障害の診断~安堵の直後に失望、そして絶望へ~
あらゆる公的機関に相談してもとりあえずの傾聴か批判だけで、日常はなにも変わりませんでした。自分の子育てが悪いのだと思い、時間とお金が許す限り、子育て講座、コーチング、心理学、コミュニケーション講座などを学び、自分自身の問題にも向き合ってきましたが、それでも変わらない日常に失望しました。そんな時、発達障害という言葉に出会い、療育センターの受診で息子の自閉スペクトラム症の診断がでました。
これで解決策が分かる!
今までの様々なトラブルや癇癪の原因が分かって安堵し、医者やソーシャルワーカーの皆さんに解決策を教えて貰えるとホッとしました。しかし、すぐにその安堵は新たな失望に変わりました。私がそこで出会った医師や臨床心理士、ソーシャルワーカー等の医療や福祉の専門家は、話しを聞いて良し悪しは言ってくれましたが、具体的な対処やアドバイスは無かったからです。情報が溢れているから自分で調べてくださいとのことでした。
世の中から突き放されたような気持ちで絶望しました。
「またか・・・」この時私が感じた本音です。今まで、何度も失望、絶望を繰り返してきた自分の人生、嫌になりました。
失望と絶望をくり返したから固く決断したこと
自分の人生と子育てを振り返ると、不本意ながらにも失望と絶望をくり返してきました。でも、こうも思った自分がいたのです。
「私は我が子のお陰で生かされている。だから、出来ることがきっとある!もう一度、親子をやり直そう!」
親業はずっと続きますが、子育てできる時間は限られています。その限られた時間の中で親として出来ることも限られています。私は、子どもには自分自身のことを好きに、大切に思ってほしい。そして、子どもと一緒に笑顔で暮らしたい。この限られた時間の中でそれを実現していくためにも出来ることをしようと決めたのです。
次は、これを読んでくださったあなたの番です。
あなたは、限られた子育ての時間の中で、お子さんと何をして、何を伝えたいですか?
そして、お子さんにどうなってほしいですか?
そのために出来ることを一緒に取り組んでいきませんか?
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