プロフィール

なにをやっても報われずに
人生に疲れてしまったあなたへ
ただ気持ちを話すだけで
重苦しい過去がふわっと解けはじめ
生きていく勇気が自然と芽生えてくる
女性のためのリライフカウンセリング
心理カウンセラー立川洋子(たつかわようこ)


幼少期
・酒乱でDVの父、それに耐える母、闘病の姉、兄と5人家族。

・突然祖母宅に1人預けられ、「母に見捨てられた」と思い込む。

・3歳の時に姉が病死。酒乱の父に絶対服従する恐怖の生活を始める。

・ある日、母が兄だけを連れて出て行こうとし、再び「母に見捨てられた」と思う。

学童期~10代

・母から「あなたが20歳になるまでは我慢する」と言われるようになり、罪悪感と自己否定をくり返す。

・19歳の冬、DVに耐え兼ねた母が家を出たのをきっかけに大学を中退。就職して母を養う立場になる。

20代

・会社の人間関係から「うつ病」発症。5年程服薬治療が続く。

・29歳で母から逃げるように結婚するも、たった2週間でうつ病悪化、自殺未遂。

30代

・うつ病が寛解にむかい、長男を出産。

・家庭よりも自分の両親を優先する夫を許せずに離婚。

・仕事と子育てに悩んでカウンセリングを受け、自分が「機能不全家族で育った虐待サバイバー」だと知る。

今までの生きづらさの原因が幼少期の家庭環境にあるとわかり、抑え込んでいた感情があふれ出る。

アダルトチルドレン、共依存、愛着障害の傾向を克服し、自分の人生を生き直すことを決め、心理学やコーチングなどを学び始める。

40代

・子どもの発達障害診断をうける。

子どもの未来に対し「どんな特性があっても自分らしく生きてほしい」との考えに辿りつく。

発達障害専門家から直接専門性を学び、子どもの得意中心の子育てに切り替えたことで、自然と子どもの応援者が増え、親子で自信を持つ。

現在

・幅広い年代の発達障害や精神疾患の方のジョブサポーター経験を経て、心理カウンセラーとなる。

なにをやっても報われず、人生に疲れ果ててしまった女性が、自分で自分を優しく育て直しながら生き直すための【女性のためのリライフカウンセリング】を行っている。


カウンセリングの中では、繊細なことをお話し頂きながら一緒に解決してゆくため、カウンセラーとの相性がとても重要です。

まずは、私の詳しいプロフィールで相性を確認してください。

 

 ▼ 詳しいプロフィール ▼ 

 

見捨てられて自分を守るために”いい子”になった幼少期


私の幼少期の記憶は、母に「見捨てられた」と感じた出来事から始まります。

7つ上の姉が病気で大学病院に入退院を繰り返していたことから、末っ子の私は母方の祖母宅に預けられました。ある日、母と祖母と3人でおでかけで電車に乗ると、発車ベルが鳴ると同時に母だけが突然電車を降りたのです。目の前のドアは閉まり、私と母は離ればなれになりました。閉まったドア越しに見える母に向かって何度も「ママ!ママ!」と泣き叫んでいました。最初から私を祖母宅に預けるための作戦だったんです。
子どもながらに”祖母宅以外に行けるところはない”と感じていました。

たまに来る母からの手紙。祖母が読んでくれて嬉しくて、でも母が恋しくて”いい子で待っててね”の言葉を信じて、寂しさをグッと我慢して”いい子”で過ごしました。それがいつしか当時の私の“普通”になってしまったのか、たまに祖母が姉の入院先にお見舞いに連れて行ってくれて、笑顔の母と手を広げて私を抱っこしようとする姉を目の前にしても、顔色一つ変えず、近寄ることすらできなくなっていました。

 

再び見捨てられ、呪いの言葉と共に30年以上続く苦しみが始まる


姉の病死をきっかけに、私は両親と4つ上の兄の住む家に戻りました。そこで初めて知ったのです。父が毎晩浴びるように酒を飲んで暴れる酒乱だということを・・・前ぶれなく突然起こる父の大声と暴言。恐怖でしかありませんでした。経済力がない専業主婦の母はそれに耐えるしかなく、いつも私にこう言っていました。

「洋ちゃんが20歳になるまで我慢するからね。」

まだ3,4歳の私でしたが、子どもながらに母を苦しめている存在になっている感覚がありました。だから、母を助けるために、わがまま言わず、言われたことがどんなに嫌でも我慢して”いい子”に振る舞いました。

でも・・・ある日、母は兄だけを連れて「バイバイ」と言って家を出て行こうとしました。母に見捨てられたような気持になったのは2度目でした。どんなに私が母を好きで大切に思っても、どんなに母の為にいい子で頑張っても、無駄なんだと感じました。まさかこの時、この見捨てられた辛さや頑張っても無駄だという無力感が、30代でカウンセリングを受けて吐きだすまで続くとは思っていませんでした。

 

助けを無視して「血の繋がり」「親子」を理由に説き伏せる大人が憎い


酒乱の父を中心とした家庭は、私が高校生になるまで続きました。
父の言うことは絶対で、着る洋服、髪形は勿論、逆らうことは許されませんでした。

そんな中、何度か親族に助けを求めたこともありました。でも、父方の叔父に「自分がどう思っても、血の繋がった自分の親だから、あなたがどうにかしなさい。」と言わたのです。

親子という血の繋がりがこの時ほど嫌になったことはありません。

「親なんて、家族なんて邪魔なだけ!大人はきれいごとばかリ!」

憎しみがわいてきました。

酒乱の父も、家の中のことも、憎しみを感じる自分自身も、全てが「恥」だと感じました。

 

その恥を誰にも知られたくないから、いつも”いい子””優等生”を演じ続けました。

一人では抱えきれない心の葛藤を誰かに本当は分かってほしけど、もう、誰も信じることが出来なくなっていました。信じて頼っても、裏切られるのもイヤだし、突き放されて悲しい思いをするのもイヤだったから、もう一人で頑張ろうと心に決めていました。だから、学校生活での友達関係もうまく作ることはできず、休み時間や修学旅行などの学校行事は苦痛でしかありませんでした。

安心感を教えてくれたのは家族以外の人だった


大学進学と同時に一人暮らしを始めた私は、酒乱の家族からの開放感でいっぱいでした。大学やバイト先での出会いの中で、生まれて初めて、私のことを気にかけてくれたり、気持ちを聞いてくれたり受け止めてくれるという体験をしました。とても衝撃的で、人間関係において、上下にも、横にも、受け入れられる安心感を初めて知りました。

「私は私でいいのかもしれない・・・」

初めて、自分で自分を肯定しました。


安心感を感じたら、勇気と行動力がついてきた


大学二年の冬、家庭の事情で大学をやめざる得なくなったことをきっかけに、せっかく得た安心感あふれる友人関係から捨て、生活の為に就職しました。子どもの頃の経験から安易に大人を信じないと決めていた私は、会社ではほぼ無言で淡々と業務をこなしました。自分からコミュニケーションは一切しませんでした。

がしかし、私の想いとは裏腹に、周囲の方がたは「いつもすぐにやってくれてありがとう」と私を働き者と評価をしてくれました。凍りついていた私の心は徐々に解けていき、大学時代に感じたような安心感を少しずつ感じ始めました

そして、その安心感は私に新しいことを挑戦する勇気を与えてくれたのです。それは、大学中退で諦めた日本語教師になる夢。更に行動力も与えてくれました。

働きながら必死で勉強し、1年後には日本語教師資格と日本語教師養成講師資格をとりました。日本語教育を通じて、人生をかけて日本語を学ぶ外国人学習者をサポートに人生で初めて遣り甲斐を感じました。

 

上司との関係悪化から「うつ病」発症


収入も上げながら日本語教育にも携われるよう転職を繰り返した20代半ば頃、当時勤めていた会社の直属上司との関係が、前ぶれなく急速に悪化したことがありました。訳も分からず、突然書類を叩きつけられることが続きました。段々と恐怖を感じました。その恐怖が、幼少期に酒乱の父が突然キレて暴れだした時に感じたものに似ていると気づくと、アッという間に、自分の中の“何か”が壊れ始めました。

不眠、記憶や思考が混乱、仕事のミス、倦怠感、耳鳴りなど典型的なうつ病症状が現れ、パニック発作も重なり、通勤が困難になりました。中程度の「うつ病」の診断を受け、服薬治療を開始しました。

 

ネガティブ感情の悪循環


3ヶ月間の療養は、服薬変更を繰り返しながらいつしか5年近くも続きました。薬の効果か症状が落ち着くと、お金の不安から主治医には黙って就職活動して採用連絡を受けたけど、いざとなると、以前のようにまた仕事が急にできなくなるのではないかと恐怖で採用辞退。そんな自分が情けなく、ダメな奴と自己否定をくり返しました。

どんどん社会にも周囲にも置いていかれる不安から、静かにイライラを募らせました。「こうなったのも全て親や家のせいだ!」と責任転嫁をし始めた私は、当時同居していた母が鬱陶しくなり、母から逃げるように「結婚」という形で飛び出しました。

結婚たった2週間でうつ病悪化して知ったのは母の愛情


「うつ病の時に人生にかかわる決断はしないほうがいい」という主治医のアドバイスも完全無視して、私は大学時代からの知人と本当に結婚しました。その結果・・・

結婚後たった2週間でうつ病を悪化させて病院のベットに寝ていました。
「もう、消えて楽になりたい・・・」と思って自殺未遂を起こしたのです。目を覚ました時「死にきれなかったんだ」情けなくなりました。

あとから聞いた話では、母は夫に離婚を迫ったそうです。きっと母は病死した姉と私と、娘2人も失うのは避けたかったのでしょう。私は幼少期から母の愛情を疑っていましたが、この時初めて母なりに愛情を持っていたことに気づきました。

母は決して良く思いませんでしたが、私は自分の意思で結婚生活をやり直すことを決めました。幸いにもその後、うつ病が寛解に向かいました。

 

親の愛情を疑って育った私が”親”になる?!


当時服用していた抗うつ薬が妊婦に原則禁忌で胎児への影響が心配だったことから、新しい命を授かった喜びよりも困惑で一杯でした。

夫は「どうしたらいいか分からない」
実母は「今のあなたに育てられるの?」
義母は「障がい者の孫?そんなのいらない!」
助産師は「リスクがあるならやめるの?どっち?」
産婦人科医は「産まれてくるまで分からない」

周囲の反応にとてもショックでした。そんな中、私の主治医だけは中立でした。


「どんなことにも言えること。後悔しないために、どれだけリスクを覚悟するかだよ。」

考え抜いた末、私だけは我が子を祝福すると決めました。でも、どうしても拭いきれない葛藤が心の奥底にあることにも気づきました。
それは…

”自分の命を粗末にした身勝手な私に、
新しい命を育てる資格があるのか?”

毎日自問しました。
旧友の言葉がその答えを導いてくれました。

「生きろってこと。
あなたを生かすために その子は来たんだよ。

その子のためにも生きなさい。 
生きて、その子を育てるんだよ!」


葛藤は、友人の助けもあり「覚悟」
になりました。その後、幸いにも五体満足に恵まれて健康に産まれました。幼少期に傍にいた大人たちを反面教師にして、子育てに奮闘しました。

しかし、息子が2歳になる頃、夫の勤務先の経営が傾いたことで夫婦喧嘩が増えました。私は両親の不仲を見て育ったことから、夫と修復不可能だと感じた瞬間、離婚を決意しました。

 

働く意欲があってもシングルマザーは雇ってもらえず理不尽


当時の私は専業主婦で、自由になるお金もなく、仕事もなく、息子を預ける保育園も、すぐに引っ越せる家もない状態でした。

ないない尽くしの私でしたが、歩みを止めませんでした。結婚指輪をはじめ家財道具も現金化できるものは片っ端から売り、家、保育園、仕事探しを必死にしました。特に仕事探しは厳しく、働く意欲があっても2歳児のシングルマザーと正直に伝えるだけで即不採用ばかりでした。

「なんて理不尽な世の中なのだろう・・・」と社会を恨み、世間を恨みました。

 

これで最後の勝負だ!と臨んだある会社の面接で、気づいた時にはなりふり構わず頭を深々と下げながらこんなことを言っていました。

「子どもに衣食住と教育を与えるために一生懸命働きます。
ですから、どうか、私に仕事をください!お願いします!」

3人いた面接官のうち、一番ご年配の方が「いいんじゃない?」と、即決採用してくださいました。研修スタートの時給は850円。子どもを育てるには不十分でしたが、しがみつくしかありませんでした。

 

誰も助けてくれない・・・それでも大切なものを守りたい!


職に就けたので、次は新居をと、2歳の息子を連れながら家探しをしましたが、ここでも再びシングルマザーを理由に難航しました。

「ただ、生活をしたいだけなのに、誰も助けてくれる人はいないんだ・・・」

雨の降る日、外を見ながら小さな声で言っていると涙が溢れてきました。すると、2歳の息子の声が聞こえてきました。

「ひでのりがいるよ!ひでのりが、マミーのそばにいるよ!」

小さな胸をトントンと叩きながら、2歳の息子が私に向かって言いました。息子を抱きしめながら、困難に立ち向かう勇気が湧いてきました。大切なものを生きて守る覚悟のようでした。

 

無いなら無いなりに、探し続ければいる出会える理解者・協力者


仕事が終わると急いで保育園に息子を迎えに行き、家探しを続けました。とある不動産屋の社長さんだけが経緯や事情を黙って聞いてくれ、最後にこういって私たち親子の家探しをしてくれました。

「幸せになるために、早く新しい環境で生活を始めなさい」

今まで親にも親族にも突き放され、自力で必死に頑張っても報われない人生の連続でした。でも、無いなら無いなりに探し続ければ、理解して助けてくれる人がいることを実感しました。

 

子育てを通じて子供の頃のような辛い我慢をリプレイ・・・


息子との2人生活も落ち着き、少ないながらも収入が安定すると、息子のことで保育園の先生から注意を受けることが多くなりました。先生の言うことをきかないし、友だちを急に叩いて喧嘩になることが多いというのです。そして、決まって最後にこの3つのどれかを言われました。

「こんな子は初めてです。」
「お母さん、家でちゃんと見てますか?」
「母子家庭で愛情不足だから、わざと悪いことをするんですよ。」

いくら保育士だろうが、言っていい事と悪い事がある!もうちょっと言い方があるのではないか!と怒りを覚えました。

確かに家庭の中でもこだわりの強さやお願いが通じないこともあって困ることはありましたが、注意をひくためにワザとやっているとは思いませんでした。先生の言うこと反論したい気持ちがありましたが、母子家庭という事実を言われると反論出来ず、私はただじっと拳を握りしめ、我慢して謝罪するしかありませんでした。

 

先生や言われた内容への怒りや悲しみを、職場の先輩ママさんたちがよく聞いてくれました。時には一緒に怒ってくれ、時には励ましてくれました。

「本当に一人でよく頑張ってるよ。」

なんだか心がジーンと温かくなりました。

 

「肩の力を抜いて生きる」が分からない


そして、職場の多くの先輩ママさんにこうも言われました。

「もっと肩の力を抜いて生きていいんだよ。」

自分では力んで生きている意識は全くなく、ただより良くなりたいと努力してきただけだったので、そう言われるたびに違和感を持ちました。あまりにも何度も言われ続けるので、なぜそう言われるのか、努力してきたことが良くないのかと疑問に思うようになりました。そしてこれがきっかけであることに気づきました。

 

「自分が思う自分」と「他者から見た自分」は違っている・・・

 

そして、知りたくなりました。
どうして、同じようなことを、違う人に言われ続けるのか。
どうして、自分には意識がないのに、人からはそう見えるのか。
私って、なんなんだろう・・・

 

”家庭機能不全”で育った”虐待サバイバー”


たまたま手ごろな値段で受講したシングルマザーのコーチング講座の先生に言われたことが、これらの疑問の紐解きのきっかけになりました。

「立川さんは、虐待サバイバーなんだね。」

最初、一体何のこと分かりませんでした。苦労はしてきたけど、自分が虐待されたとは1mmも思っていなかったからです。

子育ての悩みは子どもが悪いと思ってきたけど、親の自分が問題の持ち主なのかもしれないと感じ始め、私はカウンセリング(心理療法)を受けることにしました。

 

カウンセリングで知った自分の不幸グセ


同じシングルマザーということで知り合った心理カウンセラーさんに、子育ての悩みや自分の成育歴、仕事のこと、家族のことなど洗いざらい話しました。そして、思いもしないことを言われたんです。

「立川さんは、自分が育ってきた環境がごく当たり前だと思っているみたいだけど、それは当たり前じゃないんですよ。死別したお姉さんのこと、ご両親の不和、恐怖に苛まれながら我慢して生きてきたことを見れば、よくここまで頑張って生きてきましたね。それはすごいことなんですよ。

感情も、思考も、フリーズしたようになりましたが、暫くして、ジワジワと胸が張り裂けそうになるものを感じ、涙が溢れてきました。自分でもうすうすは感じていた普通じゃないかもしれないことでしたが、人に初めて言葉に出して言われたことで、それを初めて受け入れられました。

カウンセリングで長年の重荷を下ろしていくことができました。すると不思議なことに、自分の中に希望が出てくるようになりました。

自然と自ら心理療法やコーチングなどを学ぶようになり、自分の不幸グセやうつ病になった理由が分かるようになりました。

「私はよく頑張ってきた・・・」

素直にそう思えるようになったのをきっかけに、自分の辛い過去と身につけた知識や技術が、悩みを拗らせることを防いでくれるようになりました。

 

あんなに嫌いな父と同じことをしていた私・・・


以前よりも楽になったとは言っても、依然子育てにおいては悩みは続きました。

小学生だった息子は、毎年行われるクラス替えで担任の先生から「困った生徒」として扱われ、たびたび学校から注意を受けるようになりました。家の中でも尋常ではない癇癪やパニックを起こすことが増え、心理学やカウンセリングを学んで息子との関係性を少しずつ改善してきた私でも、「育てられない!」「母親やめたい!」と本気で思うようになりました。

その場しのぎに、息子を怒鳴って力で押さえつけましたが、即効力はあっても持続力はなく、むしろ悪化の一途でした。気づけば、息子は成長ともに私のように力づくで反撃してくるようになり、私の顔面や体には痣ができ、家の中のテレビや襖など多くの物が破壊されるようになっていったからです。

私がしていることは、父がしていたことと同じじゃないか・・・」
ふとそう思ったら、恐ろしくなりました。

「この子の力がもし家の外に向いてしまったら、どうなってしまうのだろう・・・」
更に恐ろしくなりました。

ある時、息子が台所から包丁を持ち出して「死んでやる!」と言い出した時、私は、これ以上一人でどうにかしようとしてはいけないと直感し、大きな問題があると認めざる得なくなりました。

 

福祉、行政や病院は、現実的な解決策は持っていない


児童相談所、虐待110番、学校カウンセラーなど考えられる公的機関に相談をしましたが、どこもとりあえずの傾聴か批判だけで、何も変わりませんでした。そんなときネットで発達障害という言葉を知り、そこには息子の様子にそっくりな症状が沢山書かれていました。

「私や先生などの大人が注意してきたことが、
もし、息子にとって特性的に難しい事だったとしたら
もし、息子なりに努力しているのに、
なんで出来ないんだと責めていたとしたら
どんなに息子にとって理不尽だろう・・・」


「本当の息子の気持ちを知りたい!本当の息子を知りたい!」
強くそう思うようになり、もう一度相談してみることにしました。

児童精神科受診を勧められ、受診をした結果、「発達障害(自閉症スペクトラム)」が分かりました。
原因が分かった安堵も束の間、続けて児童精神科医から言われたことに絶句しました。

「ネットに沢山情報がありますから、自分で調べてください。」

親がネットで調べて分かる程度のことであれば、死ぬほど苦しまない!
困りもしないし、悩まないんです!

社会から突き放されたような気持ちで絶望しました。
でも、もう不安や心配ばかりや嫌だ!誰かに期待したり任せるのはやめて、私が発達障害について調べよう!と決めました。

 

遠回りせず確実に変わるためにしたことは○○


覚悟は決めても、方法が分からなければ、状況は決して改善されないことは容易に想像がつきました。また、子育てを出来る時間は限られていると思っていたため、確実に解決していくために単なる専門家ではなく、自分に寄り添ってくれる専門家を探すことが近道だと思いました。

そして、日本中を探した結果、私の気持ちに寄り添ってくれる専門家によるたった1回のカウンセリングで、息子の癇癪の対処法を知り、発達障害を正しく知る術と自力で改善していくコツを教わりました。
それ以来、私は息子との日常生活の中で実践と試行錯誤を繰り返しました。その結果、息子の癇癪やパニックは減り、親子だけでなく学校の先生との関係も良くなるだけでなく、息子は自分の好きと得意を活かして自ら協力者や理解者を得ることができるようになりました。

カウンセリングは私の過去も現在も救ってくれた


心が痛くなるたびカウンセリングをしました。話すだけでも、無力な子どもだった過去の自分も、大人になった今の私も癒されてゆき、体の力が抜けて軽くなりました。きっとこれが、ずっと分からなかった「肩の力を抜いて生きる」ということなのだと思いました。

 

心理学の世界では、私のような歴史を持つ大人を「アダルトチルドレン(AC)」「共依存」「愛着問題」の傾向があるといます。実際に私は幼少期に望むような親の愛情や信頼はもらえなかったです。でも、大人になって出会った人たちからたくさんの助けと安心感を頂きました。

辛いことばかりでも、辛さを癒しながら軽くしていくことはできると私は思っています。


一人頑張り、自分責めを続けていたら・・・


きっと親を憎み、社会を恨み、あらゆる人間関係に余計にこじらせて、自分の人生も、子育ても諦めていたことでしょう。
どうにかしたい!と頑張るほど悪循環を招いていることにも気づかず、自分も、自分が大切にしたい人も苦しめ続けたことでしょう。

カウンセリングうけながら心理学などの学びを続けたことで、
一人頑張りと自分責めを止めることができました。
それは、
家族との日常
生活にも、会社の人間関係やキャリアにも良い変化となりました。

特に企業に常駐しながら精神疾患や発達特性のある成人の方の業務支援と面談サポートの仕事では、簡単なカウンセリング技法を用いて公私にわたる悩みごとの解決をサポートしてきました。先輩2名と対応していたのですが「立川さんに話したい。立川さんになら話してもいいと思った」「立川さんと話して、本当の自分を取り戻せたような気がしました」と言われることもあり、その人の言葉にならない思いをサポートすることができました

 

これから・・・


「一人で頑張るしかない!変わらないのは頑張り不足!」と、ずっと自分責めをくり返しました。
時間も、神経もたくさん使って、疲れ果てて、諦めたこともありました。
辛かったけど、今ではその辛さは無駄じゃなかったと思っています。
だって・・・


辛さと背中合わせの”希望”を実は沢山考えて頑張ってきた証拠だから・・・
ただ、今まで”希望”とは気づかなかっただけ・・・

 

もし、これを読んでくださったあなたが辛さを抱えているなら、
私の人生が少しでも役立てば嬉しいです・・・